9月27日。御嶽山の噴火を体験した。あの日の光景が今も頭から離れない。それでも私は山をキライにはなれない。本当に怖かった。「悔しいな。山で死なないために山行を重ねてきたのにここで死ぬのか」そう覚悟した。するしかない状況だった。
山に100%の安全などない。「危機意識を常に持て」そう自分に言い聞かせて来た。ガイドの時も、お客さんにそう伝えたいと思っている。
しかし残念ながら、危機意識は山で苦い思いをした分だけ身につくもので、経験、体験なしでは自分の物にはならない。本などの知識、想像だけでは限界がある。
あの日私は、御嶽山がまさか噴火するとは夢にも思っていなかった。噴火に対する危機意識はもっていなかった。振り返り一瞬見上げた噴煙と、空一面に放り出された噴石を見るまでは。晴天、紅葉、たくさんの登山者、笑い声、頂上でのハイタッチ。山の怖さを忘れていた。そこには山を好きになる要素しか存在しなかった。11時52分までは・・
私は、2週間前から御嶽山で火山性地震が多くなっている事を知りながらも、気に留めることなく、ガイドの下見に単独で飯森高原駅を9時少し前に歩き出した。8合目のナナカマドの紅葉がとても綺麗だった。
夏の天候不順で待ちに待った、晴天、紅葉、土曜日、申し分のない登山日和だったと思う。下山の人、これから登る人、登山道は人だらけだった。頂上手前でトラバースして大滝頂上山荘に行き、そこから八丁ダルミを経て剣ヶ峰には11時30分に着いた。
後日知ったが、この頃には火山性地震が多くなり、なんらかの前兆があったのかも知れない。しかし、10年ぶりに頂上に来た私には、いつもと今日のガスの違いは、分からなかった。ガスの臭いはしたが、特別危機意識をもつほどではなかった。焼岳の長老に聞いたことがあるが、噴火前は地熱が上がり登山道が蛇だらけになると。蛇は1匹もいなかった。落石などもなかった。登山者が感じる前兆は特になかったと思う。
頂上周辺には100人位はいただろう。楽しそうな笑い声、記念写真、雲の切れ間から見え出した八ヶ岳、南、中央アルプスに湧く歓声。おにぎりをほおばる人、お湯を沸かす人、靴を脱ぎ寝そべりくつろぐ人。それぞれが晴天の頂上を満喫していた。
11時42分、剣ヶ峰から社務所脇を通り抜け時計回りでお鉢廻りに歩き出した。男女2名の登山者が200b程先を歩いていた。見た感じお鉢廻りをしている人は数人しかいなかったと思う。ざれを下り、登り返す、丁度岩稜帯にさしかかる、剣ヶ峰から350bほど来た所だった。単独の男性に道を譲り平になった所で、背後から「ドドーン」と鈍い音がした。振り返り、見上げる程高く上がった噴煙と噴石を見て、すぐ噴火だと思った。放り出された石が降ってくる。頭を守らなければ。1秒のロスも許されない中、救助隊で身に付けた、「今出来る事」「できない事」「やらなければいけない事」「やらなくて良い事」そして何より「死なない事」が明確となり、生きる為の思考回路に切り替わり、体が勝手に動いた。本能だったのかも知れない。考えている暇などなかった。
登山道脇の、なんとか身体が隠れる岩に張り付き出来るだけ小さくなった。同時に視界を遮る濃いガスと、鼻に付くキツイ臭いにまかれた。そのガスは硫化水素らしい。
温泉地によくある「立ち入り禁止」の所で、もくもく出ているあの濃いやつに。息が吸えない。どう見ても身体に悪そうなのでガスを吸わないように我慢するが、苦しくてガスを吸ってしまう。息が出来ない。喉を押えてのたうち回る。
「もうダメだ」そう思った瞬間風向きが変わったのか、ガスの臭いはするがとりあえず息が出来た。今生きているのでそう長い時間ではなかったと思う。しかしこの時本当に死ぬと思った。服の襟を引っ張り出して口に付け息を吸う。「タオルを首に掛けとけば良かったな」と思った。視界もうっすらと見えた。すれ違った男性が隣に身を伏せ吐いていた。ガスを吸ったからだろうか。「大丈夫ですか?」そう声をかけた。
ついに放り出された噴石が空気を切り裂き降りだした。あまりの恐怖で頭を上げることすら出来なかった。とにかく小さくなり頭を抱え岩に張り付いた。
聞こえてくる音でかなりの量、スピード、大きさだと思った。一度だけ、剣ヶ峰方向から人の叫び声が聞こえた。後は岩と岩がぶつかり砕ける音しかしなかった。
それと焦げ臭かった。私の出来る事は、「噴石が当たらない事、噴火がおさまる事をただ祈る」それだけだった。「頼む。おさまってくれ」何度も繰り返し必死に祈った。口の中はじゃりじゃりで、水分がなくはりつきそうだった。
ザックからタオルや水を出すことも許されない。そんな事さえ命取りになるほど状況は緊迫していた。噴石が当たる事は、死ぬ事だと容易に想像できた。
噴火は、山で人間が対応できる危険をはるかに超えた自然の脅威だった。
噴火だと思いつつも、まだどこかで脳と身体がこの現実を受け入れようとしていない。この恐怖にまだ身体が順応していない。このままだと死ぬ。その思いだけは強かった。 最初の噴火の噴石が落ち切ったのか、一瞬冷たい空気が入り青空も見えた。ガスの無い本当においしい空気だった。今でも覚えている。噴火から6,7分だと思う。
隣の男性に「ここじゃやられる」と言った。男性は登山道を駆け上がって行った。
私は一ノ池方面の急なガレを30b程下った。単純に上るより下る方が早いと思ったのと、すぐ下に大きな岩の塊があったからそうした。瞬時の判断だった。
大きな岩の下に不自然に空いた小さな穴を見つけ、頭を入れた。153センチの私が、がんばっても頭と背中の半分しか入らない。左足は無理やり折りたたんで入れ、両腕もなんとかねじ込んだ。どうしても腰と右足は入らなかった。背中にはザックがあった。
すぐに2回目の噴火が起きた。15秒あったかどうかだと思う。あたりは真っ暗闇になり、自分の手すら見えない。私がこの穴をでる約50分位ほぼ真っ暗闇。たまにうっすらと30b先が見えるくらいの状況だった。生ぬるいガスが絶えず来ていた。噴石が絶望的な音を立てて雨の様に飛んでくる。岩がぶつかり砕け、四方八方に飛び散る。隠れていない右足に無数に当る。「右足はもうダメかな」とあきらめた。2つ程「痛てっ」というやつが当った。家で見たら右足はアザだらけで真っ青。血もにじんでいた。
噴石と一緒に小さな石の粒がざんざんと降り出し、足に当たる感触があった。
あっという間にしゃがんでいる腰まで積り、どことなく温かく、まるで砂風呂に入っている様だった。最初の噴火からめまぐるしく状況が変わる。この先の展開が全く分からない事、想像が出来ない事、前例と情報が無い事が何よりも恐怖だった。
暗闇の中考えていた事は、噴火直後は恐怖と悔しさだった。噴火を想定せず、今まさにその噴火で死のうとしている自分がとにかく悔しかった。そんな感情も時間の経過につれ変わっていった。
「有毒ガスさえ来なければ、噴石をしのぐ事が出来れば何とかなるかな」「登山道から外れてるけど、捜索隊は見つけてくれるかな」「水が500cc、温かい紅茶も行動食もある。数日くらいならここでしのげる」「噴火はいつ終わる」「この先どうなる」
「主人にもう一回会いたいな」さっき電話で話した声を思いだしたら急に悲しくなり、左手の指輪を強く握った。メモ帳に、遺書みたいな物を書くなら「今、でしょ」と思ったが、書いたら本当に死ぬんじゃないかと思いやめた。メモ帳を取り出す時、穴から出た肘を怪我するのも嫌だった。書くなら何て書こうかと考えたが、ろくなことが浮かばない。人間はとんでもない非日常に遭遇すると、わりと下らない事しか思い浮かばないのかも知れない。とにかく生きて帰る事だけを考えようとしていた。
私が思うに、大きな爆発は3回あった。3回目の爆発音はすさまじく近くに感じた。
たまに見える視界を頭を突っ込んだ岩穴から肩越しに見ていると、噴石はあきらかに大きくなり、電子レンジ、洗濯機、軽トラック大の岩も飛んでいた。
この頃上部では相変わらず岩の砕ける音はしていたが、灰が積もったおかげで斜面では新雪に岩が吸いこまれる様な感じとなっていた。腰も右足もしっかり灰に埋まり岩が当たらなくなっていた。なんとも不気味で現実感のない光景だった。変な映画を見ている様だった。
すさまじい爆発音を聞いた後は、出来る事はやった。あとは、なるようにしかならない。頑張ってなんとかなる状況でもないので、とても冷静になった。噴火の恐怖にすっかり順応し、完全に腹をくくっていた。「ここで死ぬ事を含め全てを受け入れよう」そんな心境になっていた。無力だった。そうすること以外出来る事は無かった。ここには私以外誰もいなかったので冷静さを保ち続ける事ができた。
この時決して生きることは諦めてはいなかった。むしろ強烈に生きていると感じ、心の底から生きたと思った。生きて帰るチャンスが来たら「ぜったい生きて帰ってやる」そう決めていた。「生きて帰る」その気持ちだけは噴火直後からぶれる事無く、強く持ち続けていた。そのチャンスを独り真っ暗闇の岩穴でじっと待っていた。最初の噴火からおよそ1時間後。チャンスは思ったよりも早く来た。絶望が希望に変わる時が来た。
雷が真っ暗闇に3本走った。近くに見えたが、もはや雷など怖くなかった。急に視界が広がりだしたが、しばらく様子を見てから外に出た。見るもの全てが真っ黒だった。地獄が在るとすればこんな景色なんだろうか。辺りは不気味なくらい静かだった。
見上げた尾根の一番上に人が見えた。降り積もった灰は膝上まであり真っ黒な石の粒でサラサラだった。新雪をラッセルするように手も使い駆け上がった。大きな岩にへばりついていたのか、男性2名、女性1名がいた。横からもう1人男性が来た。この男性は最初私の隣にいた方だと思う。そうであって欲しいと今でも思っている。
男性3人に怪我はなく、女性が足を怪我された様子で泣き叫んでいた。
剣ヶ峰に掛っていた、のろしの様な黒い雲が風でこっちに来たり、戻されたり、ゆらゆらしていた。なんとも不気味で気持の悪い雲だった。
まだ噴火が終わったとは思っていなかった。この時の私がしなければいけない事は、「自分の命を守る事」山の先輩に言われた「自分の命は自分で守れ!その時の判断に自信を持て!」自分の隠れる岩を探そう。ここを立ち去る前に女性を強く抱きしめて「もう大丈夫」と言った。「もう大丈夫、噴火は終わる」自分にも言い聞かせるように少し大きな声で言った。「助かって」そう思いを込めて強く抱きしめた。
再び一ノ池方面に下った。セメントの様な雨が降って来たので、手早く雨具の上だけ着て下った。身を隠すのにいい岩が無い。下りすぎてしまっていた。「登り返すのか、一ノ池を突っ切るのか?もし噴石が来たら何もない、やられる」自分の直感で「一ノ池を突っ切って二ノ池のガレまで行こう」と思うのと同時に走り出していた。
必死に走った。自分の生死がかかっていた。視界は良かった。400b弱はある。靴の裏に着いたセメント状の雨に灰が付き高下駄の様になる。一ノ池に転がっている噴石を蹴り上げ灰を落とし走った。空は明るくなってきた。「二ノ池本館まで行こう」怪我人がいる事を知らせたい。笛を吹きながら二ノ池の急なガレを下った。
灰のお蔭でガンガン下れる。灰は、私にスピードをくれた。小屋からは誰も出てこない。人の気配がない。なので下山道にある覚明堂に行こうと進路を少し右に変え登山道に出た。うっすらと灰が積もっていて、ここの灰は灰色で10p位しかなかった。誰の足跡もなく「皆うまく避難できたのだ」そう思った。
登山道を走り、13時10分頃覚明堂に飛び込んだ。避難された方が下山した後で小屋の方4名だけが居た。怪我をした女性の救助要請をしてもらい、噴火の様子を伝えた。
ここは火口から離れていたのか灰もさほど降っておらず、「ホッと」した。「助かった」そう思えた。場所によって状況があまりにも違う事に驚いた。
私は登山道ではない噴火口から逃げる最短ルート、一ノ池、二ノ池を突っ切り覚明堂まで約1`を爆走してきたので、尾根の上部で会った4名しか見ていない。途中、亡くなられた方や怪我をされた方を誰1人見ていなかった。
取材で何人もの記者に「ガイドで救助隊なのに何故1人で逃げたのですか?4人の方達と一緒にいようとは思わなかったのですか?」と聞かれた。私は「ガイド中でも、救助中でもない。単独だった」まだ噴火が終わったとは思っていなかった。自分の命を守る事に徹した。生きる事に執着した。その判断は間違ってないと信じている。
「一緒に行きましょう」それは一見やさしい言葉なのかもしれない。自分の確信のないただの直感の判断に人を巻き込むのは「無責任」ではないか。あの時何が起こるか分からない状況の中、どれ程の技術、体力、精神力があるのか分からない人と行動する覚悟、余裕はなかった。今生きているので私の直感は正しかった。しかしあの時何が正しいのかは誰にも分からなかった。留まる事が正解だったのかもしれない。噴石が来ていたら確実に一ノ池で私はやられていただろう。
ガイド中、救助中、仲間と一緒でも「自分の命が守れなければ、人の命は守れない」どんな状況であろうとその考えは変わらない。それが私の信念である。
9合目より下は灰が少し積もっているだけだった。8合目で見たナナカマドの紅葉も灰色になっていた。私は自分の足で下山できる当たり前の事が本当にうれしかった。
それと同じくらい不安な心を押し殺した。被害状況は分かっていなかったが自分と同じ状況だったとしたら登山者の多かった八丁ダルミ、剣ヶ峰は大変な事になっていると思うと怖かった。とにかく1人でも多くの方が下山出来る事を祈りながら山を下りた。
全身灰だらけの私を見て、下山中の方々は不思議そうな目で見ていた。「この人、何処から来たのだろう?」といった感じだった。ロープウエイ駅のトイレで自分を初めて見て笑った。最上級の砂かけババーならぬ、砂かけねーさんだった。ババーとはまだ言わないで頂きたい。駐車場の車も灰を被り、フロントガラスに粘土のように張り付いていた。地元のボランティアの方々が、何度も何度もバケツで水を運んでくださり、ホースの水で灰を洗い流してくれて、本当にありがたかった。
噴火口は1979年の地獄谷の火口とほぼ同じだったようだが、一ノ池西側と、地獄谷西側斜面に今回新たに火口が形成された。その火口はお鉢の裏側、地形図を計ると私の居た場所から350b程だった。軽トラック大の噴石を見た爆発音を思いだすとその距離も納得できる。火口は地獄谷を西に移動してきた。私の居た小屋もないお鉢は、最初の噴火から勢力を増しながら最も長時間噴石を浴び続けた場所だったと言える。
私はなぜ生きて帰って来れたのか。運が良かった。それだけなのか。
「場所が噴火口に近いものの、なんとか隠れられる岩が近くにあった。見つけられた」
「風向きが良かったのか熱風は一切来なかった。熱いと思った瞬間は一度も無かった」
「暗闇になる前に、頭の守れる岩に隠れ直せた」
「噴火だと思った瞬間から、命を守る行動に移れた」
「絶対生きて帰る。絶望的な状況でも気持ちを強く持ち続け生きる事を諦めなかった」
それと身に付いた登山技術が通用した物もある。例えば、
「登山道以外の足場の悪い所も歩ける」 頭の隠れる岩に移動した所は浮石だらけの急斜面だった。そこを走って下った。
「地形を見るクセがあった」 普段から何の気なしに最短ルートを探したりしていた。
この時一ノ池は雪渓もなく乾いていた。ここを突っ切れば二ノ池本館だと思って見ていた。それに山小屋が何処にあるのかも頭に入っていた。
「冬山の歩行技術も役だった」 火山灰が膝上、おそらく50pは積もっていた。
真っ黒い新雪そのものだった。そこをスピードを持って登り、下る事ができた。
それに運が良かった?あの日頂上周辺で運だけで生きて帰って来れた者はいない。それぞれが限られた時間、場所で最善の判断をし、もらった運を最大限に使って逃げた。
噴石から逃げ切れた者が生き残り、残念ながら逃げ切れなかった方がなくなる。そんなシンプルな状況だったと思う。
噴火のリスクは考えていなかったが噴煙を見た瞬間から命を守る行動に移れたのは、多少なりとも私に「危機意識」があったからだと思う。瞬時の判断と身に付いた技術と行動がうまくはまった事、どれだけ早く危険と判断でき命を守る行動に移れたか、何処にいたのか、そして最後に運が「生と死の分岐点」になったと思う。
行動する事が運を引き寄せた。そう思う。絶対助かる術はない。しかし生き残る可能性はあった。とにかく危険から身を守る行動をどれだけ早くとれたかだと思う。
皆「生きて帰りたい」そう強く思っていた事は間違いない。ただ何処に居たかで「危機意識、判断力、行動力」を持っていたとしても残念ながら山の脅威の前ではどうにもならなかったとも同時に思う。
本当は27日に下見に行くはずではなかった。当日1時間30分出遅れた。私は噴火に呼び寄せられたかの様に頂上近くにいた。でも、無傷で生かされた。
私が楽しい山しか知らない時、小屋番をしていてお客様が病気で目の前で死んだ。
「怖くて山に行けなくなった」「山を見るのも嫌だった」「私が殺してしまったのか」と思っていた。次の夏が来る頃には、山で死なない為に山に行かなければ。山に対する私の意識は変わっていた。山で死なないための答えが欲しかった。
ガイドになりたいと思ったのは、友人がガイドと山に入り、友人だけが雪崩で死んだ。悔しかった。「自分の命は、自分でしか守れない。」そう思い知らされた。お客さんを殺さないガイドになりたい。そのためにはもっと山を知らなければ、経験しなければと山を歩き30歳の時ガイドの資格を取った。
多くの失敗を繰り返し、それなりに反省し考え、自分なりに危機意識を身に付けて来たつもりである。山を見つめ直すとき、いつもそこには人の死がある。今回の噴火で多くの方が亡くなってしまったが、ただあのころの様に山が怖いという感覚とは違う。
日本には、活火山の山が幾つもあるが、どう共存すべきか。何が必要なのか。
ヘルメット、シェルターが在れば良いのか?
どうやら世間は、そんな安易な方向で一件落着させようとしているのではないか?
頂上周辺では、噴石の大きさ、スピード、尋常では無い。思い出すのも恐ろしい。
しかも火山灰で視界がない中それが雨の様に降ってくる。ヘルメットで防げる?そんな生易しい状況ではない。噴石に体ごと吹き飛ばされる。そんな状況である。ないよりはあったほうがいい。そんなレベルだと思う。初心者や、これから山を始める人が
「ヘルメットがあれば大丈夫」という認識になりそうで恐い。噴石には通用しないが、難を逃れ下山する事が出来れば、有効だと思う。
平常心では下山出来ないであろうから、転倒時の怪我防止には役立つのではないか。実際火山灰が粘土の様になり滑りやすく多くの方が転倒していた。
シェルターはどうだろう?
真っ暗になってしまえば入れない。火山灰の暗闇ではヘットライトは通用しない。
何かを持っていれば、何かを造れば大丈夫」みたいな考え方ではダメだ。
それは残念ながら自然を無視した人間の傲慢な考え方ではないか? 私はそう思う。山の危険に対する本質がそこには無い。本質を見極める事が出来て始めて、装備などを使いこなせるのではないか。謙虚な気持ちになるのではないか。
私が思う登山者が持つべき一番必要な物は装備の前に「100%安全」など無い所に、自分の意志、判断で踏み込こむ。何があっても自分が全てを受け入れる「自己責任」の意識と、その意識があれば自ずと「自分の命は自分で守る」という意識になると思う。そして「危機意識」これらの「意識」が改めて重要だと痛感した。意識があってはじめて行動力に繋がっていくと思う。
「自己責任」この言葉は受け取る側次第の誤解されやすい言葉である。今回の噴火では「責任」という文字だけ見るとしっくりこないが、自然相手の登山ではこの意識なしでは成り立たない。登山者が持つべき大前提の意識だと思う。意識があれば自分が登る山を事前に調べ登山計画書を制作し、どんな危険が想定できるのか、そしてどんな装備が必要なのか準備に繋がり、どれほどの体力、技術が必要なのかも当然見えてくると思う。準備と知識は安全登山に繋がる必要不可欠なものだと思う。
そして出来るだけ多くの危険要因を知る事で、起こりうる危険に対してどこまで想像出来、対処、回避できるのかが危険から身を守るのには必要だと思う。ある程度の危険予知が出来たとしてもやはり、何が起こるか解らないのが自然だが。山は厳しい一面もあるが無駄に怖がる事をせず、その厳しさも含めて山を知る事、受け入れる事で対処法、回避法が見えてくると思う。
時として死と向き合う事もある。それが自然と共存する事、そして「登山」という行為そのものではないか。登山にはモラル、マナーはあってもルールはない。ルールを作るのは登山者自身の判断である。自然は老若男女、そして初心者、経験者誰に対しても平等である。個々がどのように準備し向き合い、関わるのかが重要ではないかと思う。
私自身、装備の進化、バス、ロープウェイ、山小屋などの交通、設備の充実、ネット、雑誌からの情報の気軽さから山を身近に感じ過ぎていた。まさか噴火するとは考えもしていなっかた。つまり山をなめていた。山は昔も今も変わっていないはず。関わる人間側の向き合い方が大きく変わってしまったのではないか。そう思わずにはいられない。
生かされた自分には何が出来るだろう。
私はきっとガイドが出来るうちはガイドをさせてもらうだろう。自然の素晴らしさと同時に厳しさを伝えたいと思っている。
あの時自分の命を守る事しか出来なかった。「生きていて良かった」それで終わりにしていいのか?何か出来る事はないのかと考えた時、この噴火の恐ろしさ、なぜ多くの方が亡くなってしまったのか伝えなければいけないと思った。
「知らなければ、前には進めない」この先、あの日の光景、恐怖を忘れる事はない。だったら真正面から向き合っていこうと思っている。
私自身噴火の対処法など知らず、考えた事もなかったがすぐ行動した事で生きている。もちろん居た場所はおおいに関係あると思うが。亡くなられた半数の方の遺品のカメラには噴火の写真が写っていたという。危険をとっさに受け入れない精神状況もあるというが「はやく逃げていれば」と、どうしても思ってしまう。
生きてもなお、無力感、罪悪感、恐怖感、自責の念に苦しんでいる方々もいる。
あの時誰もが無力だった。自分の事で精一杯だった。それでいいと思う。心の傷は時間が解決してくれればと願っている。
二度と起きて欲しくないが、この体験を登山者が身近に感じてもらう事で、対策や回避につながり、活火山を登るリスクの中に「噴火」があると認識してもらえたらと思う。頭の片隅にでも置いてもらえたらと思う。噴火で登山者が傷つき、亡くなるのは今回が最後であって欲しい。そうしなければいけない。そう切に願う。多くの登山者が亡くなられてしまったこの教訓を「災害」という言葉だけで終わりにして欲しくない。
志半ばで亡くなられた方々に、この先行政を含めた火山との向き合い方「共存」、そして噴火をとうして登山者、関わる全ての人に多くの「教訓」を残して頂いたと思う。
反省すべき点をしっかり反省し、この教訓を伝え、受け継ぎ、生かす事が出来てはじめて亡くなられた方々の鎮魂になるのではないか。
あの日、穏やかだった御嶽山は突然噴火した。まるで自らの意思を持った生き物のようにとんでもないパワーとエネルギーで、人間の力ではどうする事も出来ない自然の厳しさを見せつけた。一瞬にして登山者を恐怖のどん底に落とし込み、多くの方の命すら奪った。そこにいた者、関わる者の人生を大きく変えた。
それでも私は山をキライにはなれない。厳しいからこそ好きなのかもしれない。その気持ちだけではダメだ。どうやって向き合い、共存して行くべきか、今深く考えたい。
最後に、
噴火により亡くなられた方々のご冥福と、行方不明の方々の発見を心より御祈り申しあげます。 以上
小川 さゆり trojironer-1126@y3.dion.ne.jp
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